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【会津若松】着物でおでかけおすすめスポット🚙
こんにちは☻
最近、大好きな会津若松に行きたい欲が抑えきれない和音スタッフKです。コロナウイルスの影響で遠出は自粛しておりますが…
皆様は、旅行などで行かれたことはございますか??
以前にも会津若松について記事を執筆しましたが、今回は新撰組と絡めて会津若松を紹介していきたいと思います📝
歴史のロマンあふれる、着物の似合う街なんです!
実は、会津若松と新撰組の関わりは非常に密接。
1868年(慶応4年/明治元年)~1869年(明治2年)の戊辰戦争において勃発した会津戦争で、長州藩を筆頭とする倒幕派から攻撃の対象とされてしまった会津藩。そこで新撰組は旧幕府軍として戦いました。
当時は「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉の通り、明治政府軍に敗れた旧幕府軍にはあまりいいイメージがついていなかったそう。
会津若松自体も政府の直轄地になり、戦争で甚大な被害を被ったにもかかわらず、政府からかなり冷遇されたようです。
現在ではメディアの人気も相まって、幕末のヒーロー(?)的な印象が強い新選組ですが、敗戦の最中命を落としていった人、その後の人生を歩んだ人も無念を唱えていたと思います。
そんな新撰組に想いを馳せて、ゆっくりと景色を見つつ散策を楽しんでみてはいかがでしょう☻
まずおすすめするのは、華やかな観光スポットから少し離れた、街はずれにある天寧寺。
山道を約10分程歩くと、新撰組局長近藤勇のお墓と、副長の土方歳三の慰霊碑があります。
近藤は板橋で斬首刑になっており、会津に向かうことはできませんでしたが、当時会津で知らせを受けた土方によって建てられたそうです。
もののふの魂がここに眠る…ですって。
ちなみにもののふとは、武士のこと。
こんな感じの道を進んでいった先にあるんですが、わりと獣道なので行かれる際にはスニーカーをお勧めします。
命日にあたる4月25日には、毎年墓前祭が開催されています。
墓に入っているのは、京都の三条河原から隊士が奪ってきた首である説、遺髪説とありますが…実際はどうなんでしょう。
写真は6月に行ったときのものですが、たくさんのお花が飾られていました。現在でも墓参者は絶えません。
そして天寧寺と少し離れた街中、七日町駅の向かいにある阿弥陀寺では、新撰組三番隊組長の斎藤一が眠っています。
東軍というのは旧幕府軍のことです。ここには取り壊された鶴ヶ城の遺構も移築されています。
会津戦争で一部の隊士と共に如来堂で戦い、会津藩が降伏した後に捕虜となって、斗南藩へ。その後東京へ、西南戦争では熊本へ、と、全国を飛び回って戦った人物。
晩年まで東京で過ごしたそうですが、本人の希望で会津にお墓を建てたそうです。
また、会津若松の歴史の舞台で外せないのは、シンボルともいえる会津若松城。
戊辰戦争時に西軍の猛攻に耐え、約1か月後に降伏するまで会津藩士が籠城した難攻不落の名城です。真っ白な美しい外壁から ”鶴ヶ城” とも呼ばれます。
その後明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は1965年(昭和40年)に再建されたものになっています。
天守閣の内部にある郷土博物館と、本丸内にある茶室は有料で見学できます。特に最上階からは市内や磐梯山なども一望でき、会津の絶景が楽しめます。
イベントも多く開かれ、夜はライトアップもされるので、昼の姿とはまた違った幻想的な天守閣が見れますよ。
また、新撰組ファンなら会津新選組記念館も外せません。七日町通りに面していて、広々した通りのお店先には誠の暖簾がかかってあるので、とってもわかりやすい。
正直ここ、ファンにとっては住みたいくらい楽しい場所です。
1階には古き良き時代を感じるお土産物やおもちゃが置いてあり、2階には当時の武器や文書が保管されてあります。歴史好きの方、七日町通り散策の際にはぜひ行かれてみることをおすすめします🚙
いかがでしたか?
当時の風景をを色濃く残す町並みや、美味しいお酒、お料理が魅力の会津ですが、歴史の背景を知るとノスタルジックな魅力をさらに感じることが出来ます。
東北(雪国地方)の人は、苦境に耐えられる我慢強い人が多いといいますが、会津の歴史って、正にそれだと思います。3.11の大きな原発事故があったのも記憶に新しい出来事。
歴史に翻弄されながらも強く生きる会津の土地には、本当に魅力を感じます。